祝!日本遺産認定5周年「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」~資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍~」


日本遺産認定5周年!

平成29428日、姫路市、福崎町、市川町、神河町、朝来市、養父市の6市町が申請を行ったストーリーが、文化庁により正式に日本遺産として認定されました。

今年は認定から5周年の節目の年となります。

 

「日本遺産(Japan Heritage)」は(地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。

—文化庁ホームページより

 

日本に残る歴史的資産とそれにまつわる物語を、特に海外の人にもわかりやすくまとめ、海外からの観光客増加が見込まれるオリンピック開催年の2020年までに全国的に100のストーリーの認定を目指しています。

 

朝来市も2016年に、生野銀山を中心とした物語で認定を目指しましたが、惜しくも認定とはなりませんでした。

そこで本年度、「銀の馬車道」×「鉱石の道」の関連6市町村との広域的な連携のもと見事、日本遺産認定となりました。

 

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「銀の馬車道」×「鉱石の道」 申請ストーリーについて

【タイトル】

「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」

~資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍~」

 

【ストーリー】

鉱山が生んだ南北73kmの道

兵庫県の中央部播但(播磨と但馬)地域を南北に貫く、一本の道があります。飾磨港から生野、さらに中瀬に連なる全長73kmのこの道は、鉱産物、採掘・製錬に必要な資材、生活物資を届ける馬車が盛んに行き交いました。

飾磨港から道をたどると、鉱山と共生した宿場町や町家が次々と現れ、経営拠点が置かれた生野には今も稼働する金属工場から操業の音と製錬の匂いが放たれ「鉱山まち」の活気を感じることができます。道は生野から北へとつづき、神子畑・明延・中瀬の鉱山にいたります。想像を絶するほどに地中深く掘られた坑道からは、金・銀・銅を求めた鉱夫たちの息遣いが聞こえてきそうです。

 

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瀬戸内の港町から、“銀の馬車道”をゆく

日本初の高速産業道路と言われる“銀の馬車道”は、明治9年播磨の飾磨港(現姫路港)と49km北の生野鉱山とを結ぶために造られました。建設ルートは最短・平坦を選び取り、重い鉱石に耐え得る画期的な構造を持った馬車専用道でした。

起点となる飾磨港周辺には、生野産のレンガで作られた倉庫「飾磨津物揚場」跡や港湾護岸が残り、馬車道のたたずまいが受け継がれ、その後まさしく真一文字に姫路城に向かいます。

姫路の街を抜け一路北へと進みます。道は田園のなかゆるやかに続き、しばしば趣のある古民家が点在する町並みが現れてきます。それは福崎町辻川、市川町屋形、神河町粟賀の宿場町として栄えた町並みです。辻川には姫路藩の大庄屋を務めた「三木家」、粟賀には毒消しとして盛んに飲まれた仙霊茶を製造・販売したお茶問屋「竹内家」など地域のシンボル的な町家が残り、往時のにぎわいを彷彿とさせます。

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[飾磨港の飾磨津物揚場跡]

 

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[宿場町(粟賀町)を通る銀の馬車道]

 

日本の近代化における原点、「銀のまち-生野」

“銀の馬車道”の一区間が現存する神河町を過ぎ、播但の境をなす生野峠を越えると、清流市川に沿って集落が開けてきます。そこは播磨と但馬を結ぶ交通の要衝であり、開坑から1200年の歴史を誇るかつて“佐渡の金・生野の銀”と言われた全国屈指の鉱山まち生野の町です。赤みがかった生野瓦の屋根、格子に意匠を凝らした町家、鉱物製錬後の不用物を石状に固め石垣・土台に使うなど、鉱山まち独特の景観をとどめる口銀谷地区を抜けると、生野鉱山本部の置かれた工場に到着します。
明治政府は、近代化を先導する模範鉱山として、ここ生野を西洋の技術を導入した日本初の官営鉱山としました。

 

動力の機械化、火薬による採掘、耐えられる坑道、水銀を使った製錬など、全ての技術が当時の日本人が初めて出会う体験でした。この時造られた鉱山本部は、140年を経て今もなお錫製錬工場として稼働し続けており、活きた音・匂いが鉱山まちであることを強く感じさせます。と同時に明治時代の「西洋技術による鉱山の近代化」を短期間に成し遂げた背景には、現代のものづくりにも通じる営々と築き上げてきた人力主体の手工業的な生産システムが礎としてあったことを気付かせます。

またハード資産だけではなく、鉱夫の滋養のためにと栽培され、今や日本三大ねぎのひとつ「岩津ねぎ」といった鉱山に由来を持つ農産物があり、生活に鉱山の影響がうかがえます。

 

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[生野鉱山町のたたずまい]

 

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[明治の製錬関連施設]

 

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[生野鉱山の坑道]

 

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[岩津ねぎ畑]

 

近代化を牽引した軌跡、“鉱石の道”をゆく

生野から分水嶺を越え北へ24kmとつづく“鉱石の道”、“銅の神子畑・明延、金の中瀬”へと歩を進めます。風格ある日本最古の全鋳鉄製の橋を過ぎ、東洋一の規模を誇った神子畑の鉱石の選鉱場に行き着きます。さらにその先は明延鉱山。総延長550kmにもおよぶ坑道から鉱石を運び出すトロッコ軌道をめぐらせ、地下1,000mの奥底へとつながっています。暗く冷涼な坑道に足を踏み入れると、岩肌に残る生々しい掘り痕と地下から伝わる冷気で、異空間にいる緊張が高まってきます。町には、共同浴場跡や映画館跡が残り、厳しい暮らしの中での安堵と疲れを癒した様子を感じることができます。

また神子畑と明延間には、鉱石と人を運んだ「明神電車」が走っていました。この電車は一円の運賃だったことから「一円電車」と親しまれ、今に姿を残しています。
飾磨港と生野・神子畑・明延・中瀬の鉱山群を結ぶ“銀の馬車道 鉱石の道”は、明治時代に出現した生産から輸送・物流に及ぶ「海と山を結ぶ鉱業コンビナート」でした。この道には、多く・速く・遠く運ぶための思想と先端技術が詰め込まれ、近代化に舵を切った鉱山経営の仕組みがほぼ完全に残されており、その姿は現在の暮らしを支える「ものづくり」の始まりの様子を示しています。

播但貫く73kmの轍をたどることは、鉱物資源大国たらしめ近代化を推し進めた先人の国際性と革新の気質に触れることであり、金・銀・銅を求め行き交った多様な人の交流から生まれた多彩な生活に出会うこと。そしてこれらが、脈々と現代に連なり強く息づいていることを体感する旅と言えます。

 

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[神子畑鋳鉄橋]

 

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[明延鉱山(一円電車軌道跡)]

 

明延坑道内

[明延鉱山の坑道]

 

 

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